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ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯) : ミニ英和和英辞書
ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)[はく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [だい]
 (n,pref) ordinal
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [はく]
 【名詞】 1. count 2. earl 3. eldest brother 4. uncle 5. chief official 

ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯) : ウィキペディア日本語版
ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)[はく]

第2代エセックス伯ロバート・デヴァルー(またはデヴルーデュヴルーデヴェロウ、 , 、1566年11月10日 - 1601年2月25日)は、イングランドの貴族、軍人、廷臣。
女王エリザベス1世の寵臣であり、1596年カディス遠征で軍事的英雄となったが、宮廷内でロバート・セシルと対立を深めた。1599年に鎮圧に失敗したことで失脚。復権を期して1601年にセシル排除を狙ったクーデタを起こすも失敗し、大逆罪で有罪となり、処刑された。
== 概要 ==
1566年、初代エセックス伯爵ウォルター・デヴァルーの長男として生まれる。母は女王エリザベス1世の母方の従姉の娘である。10歳の時の1576年に父が死去し、第2代エセックス伯爵位を継承する。宰相の初代バーリー男爵ウィリアム・セシルが後見人となって育てられた。ケンブリッジ大学を卒業する(''→出生・育ち'')。
母の再婚相手(継父)である初代レスター伯ロバート・ダドリーの後援で宮廷デビューした。美男子な容姿を生かしてエリザベス女王の目に留まる。1585年にはレスター伯に従ってネーデルラント遠征に従軍し、この際にフィリップ・シドニーによりナイトに叙された。帰国後には戦死したシドニーの未亡人(フランシス・ウォルシンガムの娘)と結婚し、騎士道精神あふれた行為として称賛された(''→宮廷デビュー'')。
1587年頃からエリザベス女王の寵愛を受けるようになり、同年に任じられ、1590年からはワイン輸入税の独占権を認められた(''→女王の寵臣に'')。1589年にはリスボン遠征に参加したが、戦果は上げられなかった(''→リスボン遠征'')。1591年から1592年にかけてでイングランド軍の指揮官を務めたが、やはり戦果はあげられなかった(''→ルーアン遠征'')。
ルーアンから帰国した頃から宮廷内にエセックス伯派を形成するようになり、セシル派(バーリー卿とその息子ロバート・セシルを中心とする派閥)と対立を深めるようになった(''→セシル親子との対立'')。
1596年カディス遠征において指揮官を務め、大勝したことで軍事的英雄となった。この戦功で軍務伯に任じられた(''→カディス襲撃の成功で英雄に'')。1598年にフランスがスペインと講和するとセシル親子を中心とする和平派とエセックス伯を中心とする主戦派の対立が深まったが、この論争は主戦派が勝利し、スペインとの戦争は継続されることになった(''→対スペイン主戦派として'')。
1598年7月から8月にかけて女王と喧嘩して関係を悪化させた(''→女王との関係の悪化'')。を鎮圧する戦功をあげることで立場を挽回しようと考え、1599年アイルランド総督に就任し、アイルランドへ出征した。しかし鎮圧に失敗したうえ独断で休戦して女王のもとへ戻り、女王の寝所に押し入ってきて報告を行った。この件で女王の逆鱗に触れた(''→アイルランド反乱鎮圧に失敗'')。枢密顧問官たちにより裁判にかけられ、1600年6月に官職を解かれて自宅謹慎処分となった。8月に謹慎は解かれたものの、彼のワイン輸入税独占権を更新しないことが決定された。多額の借金を抱えるエセックス伯にとってこれは致命的だった(''→失脚'')。
1601年1月から2月にかけて第3代サウサンプトン伯ヘンリー・リズリーら自派閥の者たちとともにロバート・セシル排除を目的としたクーデタを計画するようになった。2月8日にクーデタを決行したが、失敗して逮捕された(''→クーデタ'')。
1601年2月19日に裁判にかけられた。裁判でエセックス伯は、決起はセシル排除を目的とした物であり、エリザベス女王への大逆の意思はなかったと証言したが、結局大逆罪で有罪判決を受け、2月25日に斬首された(''→裁判と処刑'')。
端正な顔立ちで長身の美男子だったが、感情の抑制が効かず、自制心や克己心がまったくない人物だったといわれる。しかし目下の者には優しい人物であり、国民人気は絶大だった(''→人物'')。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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